社員インタビュー

shiina

東京事業部社員インタビュー第2回は、椎名高久専務。バブルの絶頂期に入社されてから20年余り、営業の最前線に立ってこられました。専務就任は2015年5月。現在は、東京事業部だけでなく、神戸本社にも足を運んで現場の声を聞き、福田印刷のさらなる飛躍のために奔走しています。若い頃はやんちゃだったという椎名専務ですが、営業部長を経て専務という立場になった今だからこそ、見えてくることがあるといいます。
東京事業部は60周年、福田印刷としては間もなく80周年を迎える中、経営者としての想いを語っていただきました。

①印刷業界&福田印刷に入ったきっかけ

―いつ入社しましたか?
  • 入った当時はバブル絶頂期の平成3年、1991年3月21日入社、今年の3月で入社26年目になります。
    大学時代に体育会系の部活に入っていて、就職するときには就職の案内がたくさん来ました。毎日のようにポストの中に案内が来ていて、それを1週間ためると、床から天井までハガキが溜まるくらいの世界でした。その前が売り手市場で入る前が超売り手市場と言われていた時代で、体育会系の部活に入っていたというだけで内定みたいな形になったりとか。
    それで申し訳ない話だけど、どこに行きたいというのがなくて、営業がやりたいという気持ちはあったのですが、なんの業種というのも決まっていなくて。
    一応やりたかったのは、部活でテニスをやっていたこともあって、スポーツに絡んだもの、スポーツインストラクターとか、リゾート開発みたいな。当時は印刷会社のことなんて全く分かってなかった。
    それでいろんな会社を受ける中で、当時営業部長だった山本さん(山本昌平元社長・会長、前相談役)と知り合いだった縁で面接にきました。
    会社見学して、先輩営業マンと話をしました。「どういう会社なんですか」と聞くと「大手の会社に入ってしまうと会社の歯車になっちゃうよ。でもうちみたいな中小企業なら一営業マンとして全部仕事をまかせてもらえるからすごくやりがいはあるよ」と言われて。
    悩んだ中でやはりせっかくの紹介もあったし、大手に入るよりも自分として何とかできる仕事がいいなと思ったので福田印刷に入りました(笑)。いま思えばその後にバブルが崩壊してリゾート関係は下火になってきたから、まあそっちにいかなくてよかったかな(笑)。

②実際会社に入ってみて

―はじめはどのようなことをされていたのですか?
  • 最初は、デジタル化のはしりだった企画(グレーンセンター)に配属されました。3年間印刷のことを勉強して知識を身につけてから営業に上がってこい、と。斎藤(雅晴)さん(インタビューVol.1に登場)の下で線の引き方とか、いろいろと教えてもらって。ワープロで打った物をFXという組版機にもってきて組版するという本当にデジタルのはしりの時代でした。
    1991年3月に入社して翌年の3月にバブルが崩壊してしまった。でも売上はその頃一番伸びていたと思いますよ。2、3年はそんなに売上が急に下がるってことはなかったのですが、それから売上がどんどん下がってきている中でも、自分の頭の中はバブルで。ジュリアナみたいな。会社の中ではそんな風に扱われていたところがあって、そのころイケイケボーイとか言われてた(笑)。
    会社の新入社員歓迎会の時も、まあ勘違いしてるから「僕が会社牛耳ります!」とか言っちゃって。生意気なことばかり言って、なにかというとすぐかみついちゃうところがありました。昔の話を知っている人間が少なくなってきたけど当時の話をされると本当に申し訳ないって思う…。
―3年間は企画にいたんですか?
3ヶ月たった頃に営業が一人辞めることになって、3年間は企画にいるはずが営業に異動になりました。引き継ぎ期間が3ヶ月くらいで、先輩が持っている得意先をそのまま3ヶ月後には回りはじめました。勉強したって感じではなく、まさに仕事は実践で覚えてという世界でしたね。当時は仕事もたくさんあってこなさなきゃいけない。版下・フィルムの時代だったからやることが多かったかな。
―思い出に残るエピソードや失敗談はありますか。
今と違ってセキュリティが厳しくないから常にお客さんの近くで話ができて、そういうところが苦手ではなかったので、常に何とかお客さんと仲良くなろうとしていました。でもあるとき、前任者が納品したものにミスがあり、はじめて会うお客さんに呼ばれ、どうなってるんだ!って怒られて。何もわからないのに。でもその方に言われたのが、「君は福田印刷の顔として営業で来ているんだから新入社員だろうが関係ない!」と。そんなこと味わったことなかったので、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだって、悔くて会社に戻って泣いた覚えがある…。それが印象深い経験かな。
―逆に最初の頃にそういう経験をしていい糧になってる感じがありますね。
さっきも話したようにお客さんの近くにいられたというのがありがたかったですね。
バブルが終わってもまだバブルのお客さんも多かったから、行くと部長みたいな人から呼ばれて「ちょっと肩もめ!」と言われて30分くらい肩もんで仕事もらうとか。その人と仲良くなってしまえばいいという感覚があってそれが昔はできた。それが私にとってやりやすかったですね。今は距離がありすぎてかわいそうだなと思います。
―失敗のお話は聞きましたが、逆に良かったなと思ったことは?
お客さんといろんな所へ行きましたね。旅行に行ったりフットサルやったり。そういうことを率先してやっていました。飲み会とかもいやじゃなかった。
その頃はもうバブル時代のやり方が通用しなくなってきて。バブル後1年くらいは見積もりの明細なんか書かなくてよかった。変な話、言い値で通った時代でした。お客さんの予算もまだ多く、先方としては仕事が多かったからこなして欲しいという要望が強かったと思います。そういう面で言うと、会社の雰囲気も個人商店。一人一人が売り上げの数字をかなり持っていて、それをこなすために何でも使う、業者も使う、社内のスタッフも使う。みんながいい意味でも悪い意味でも競い合っていましたね。

③仕事へのこだわりについて

  • ―その後アナログからデジタルへ、バブルからバブル後へ、仕事のやり方などは変わりましたか?
    お客さんの予算が削られて、合い見積もりになる時代になっていきました。
    バブル崩壊もそうだけど、版下・フィルムもどんどんなくなって、刷版・印刷という時代に入っていきました。ただそれまでのやり方で10年も20年もやってきた人と違って、1年だけだったから臨機応変というのか、融通はきいたと思います。
    ―仕事をする上で大切にしていること、こだわっていることは?
    実践で勉強した中で、やはり「お客さんを安心させるのが一番」だと思います。
    若い時は「何でもやります!」のような、レスポンスがよいというだけでよかったけれど、やはり「あの人にまかせておけば大丈夫」というようにならなければ。ただ自分一人でできるものではないから、現場の人たちが味方になってくれるような人間にならなくちゃと思っています。なっているかどうかわからないけれど(笑)。
―では現場の人たちに味方になってもらうために、気をつけていることは?
無駄な労力を使わせたくないですね。
当時デジタル入稿に移行するのが営業マンの中では早かったのですが、あるデザイナーさんからデータをもらって会社にもどってきたら、何がなんだかわからないということになってね。
画像が入ってないとか、それでまたデータをとりに行って、というのは無駄だと思って、自分で入稿データをお客さんのところでチェックできるようになろうと。だから昔はよく企画にいたと思うよ。Macさわったりね。ただ最近はさわらないで!って怒られるけど。
デザインについても、持っていったらこんなの違うと言われて、また持ち帰るなんていうのも無駄だと思うし。そういうことはしないようにして、時間短縮しようとしていましたね。
―なるほど。今はセキュリティが厳しいですよね。お客さんのところでチェックできない状況をどう思いますか?
一番はインターネットの普及が大きいですね。データがなければ、また送ってくださいと言えることが楽にはなったんだけど、安易に入稿されすぎていると感じます。データがなくて、またとりに行かなくちゃいけないとなると、営業もしっかりするんですがね。

④専務として、営業時代からの変化

  • ―ではここでお話を変えて。専務になられて、営業時代と比べてどのような違いを感じていますか?
    まず専務になった当初は営業の一員でもあったので、「営業として数字を上げて利益を出す」ということが会社にとっていいことだという思いがありました。ある時、専務の立場はそうではないと気づいてね。東京でいうと、営業・企画・管理が三位一体となって、売上を伸ばしていくことを考えてもらわなくては、と思いました。
    そのためには、経営者の立場としては、それに取り組みやすい設備とかシステムとか、どんどんやっていかなくてはいけないなと。現場がやりやすいようにしてあげたい、という気持ちがあります。それは東京だけではないけれど。
    ―まさに、経営者としてのお言葉ですね。
    最初の頃は、神戸に行くとどうしても「東京は」「東京は」と言ってしまっていて。まずは営業マンから抜け出さなくてはいけないところと、東京だけの人間から抜け出さなくてはいけないところ、会社全体を考えなくちゃいけないというふうに、変わらなければと実感しています。これから営業をはずれて、もっと神戸に行って、もっと神戸の現場を見てね、課題をどうしていこうかと。
    時代はお客さんの方が進んでしまっている部分もあり、でも印刷会社はその上に行かないといけないと強く思っています。お客さんのシステムについても、その上にいかないと、会話にもついていけない。
―お客さんも、どんどん進んでいっていますよね。今後は?
印刷物がペーパーレスになっていって、今後福田印刷として何を売っていけばいいのか?当社は印刷データを持っているのだから、それに携わった、そのスキルを発展させて新しいことをしていかなければと思っています。ラーメン屋とか、そういう全く違う業種じゃなくてね。
新しいことをやりつつ、まずはベースを作らないと。やはり印刷だけだと安い印刷会社っていっぱいあるわけで。うちの売りは企画とかデザインだけではなく、ここがおかしいのでは?と指摘する校正力もあるんだけど、それだけではなかなか太刀打ちできないところもあるから、お客さんの囲い込みをするために、印刷というのはあくまでもそのうちの一つという考え方もあると思います。
例えばシステムだったり、在庫管理だったり、印刷もサービスの一環としてというふうに取り組んでいかなければ、今後やっていけなくなるんじゃないかなという気持ちはあります。
すぐにできるものではありませんが、まわりに情報をくれたり、教えてくれる人たちがたくさんいるから、(自分が)成り立っているんだなと思っています。それはすごくありがたいですね。
―全体を見る立場から、営業・企画・管理について、どのような印象をお持ちですか?
昔から比べると、インターネットの普及と、セキュリティの問題ということがあって、企画への負担が大きくなっていると思っています。
お客さんとのやりとりもPDFなどで直接やっていて、赤字が入ればそれも直接企画に入るよね。営業はどこにからめばいいのという話になってきます。もちろんその流れをつかんでおくことが営業なんだけれども、今までは営業がお客さんのところに行って話しをして、どうしましょうかといったことをやっていましたが、そういうことがなくなりつつある。アポをとらないといけなくなったり、セキュリティが厳しくなったりして、昔みたいな営業はできなくなったからね。
もちろん昔からのお客さんも多いし、そういうことを大事にする方もいるんですが、インターネット経由でくださいとか、セキュリティの都合で入れませんとかいうことが増えていく。そこに向かってどう営業スタイルを変えていくか、ということが悩みの種ですね。
―管理に関してはどうですか?
管理は、営業からこれをやってあれをやってという(雑用のような)ことが多いから、見えないところですごく頑張っていると思います。
管理というのは手回しというかちゃんと社内外に段取りを組んでお客さんの納期に間に合わせるものだという気持ちはありますが、現状はなかなかそうはいかない。
管理の仕事は数字に見えないから、頑張りが見えにくい。そこをきちんと評価してあげることが大切だと思っています。源本部長(東京事業部長)が、いつも管理の様子を見てくれているから大変助かります。

⑤リフレッシュ方法や趣味について

  • ―休日の過ごし方は?
    学校の関係、自治会、消防だったり地元の行事に参加することが多いです。
    あとは趣味というか、小学生の子供の野球チームに一緒に野球しにいくのが楽しいですね。テニスと言いたいけど、やっていないのがばれちゃう(笑)。
    春からは野菜作りです。家の横のちょっとした土地を耕してキュウリ、トマト、ネギ、ジャガイモのなどを作っています。食べられるものなら有事の際にも役に立つかななんてね。インターネットで作り方を調べて、どうしたら良く育つか研究したりね。その探求心を仕事にも生かせって(笑)。
    仕事では失敗できないでしょ。野菜は何回かやって試行錯誤できるから、そういう意味では経営とは違うかもしれませんね。間引きなどもかわいそうかな、とかね。
―地元に密着、地元を大切にされている印象がありますね。
いいなと思うのは会社だけの人間にならないところです。
今の専務という立場だとどうしても上からの目線になってしまうのですが、地元にいると、特に消防団などは上の人がいっぱいいるわけです。今の立場にいると勘違いしてしまうことも、下の人たち、現場の人たちはこういう風に思っているんだな、というのがわかるので天狗にならないでいられます。
いろんな組織の中の立場でものが見られて、良い経験させてもらってます。

⑥これからの福田印刷へ

―社員へメッセージをお願いします。
  • 社員の人が福田印刷に入って良かったなと思える会社にしたいです。
    そこには社員だけじゃなく、家族がいて、奥さんや旦那さんがいて子供がいて、60〜70人の社員×3で210人くらいのものを背負っている気持ちはあります。
    業者さんも含めていろんな人の人生がからんでいるっていうことは重く受け止めないといけない。
    福田印刷として間もなく80周年迎えるわけですが、諸先輩方が作った歴史を大切にしながら新しいことをしていかなければと思います。ただの通過点ではなく、そこには飛躍もないといけないですし、どうやって生き残っていくか、神戸本社に行って、現状を把握し、どこに力を入れていくかを考えていかないといけないと思っています。
    時代の流れで版下がなくなって、フィルムがなくなって、CTPになってきた時代に、当時当社がCTPを導入する判断は早かった。そこが遅れていたら生き残れなかったかもしれません。
    かつては印刷代の半分が製版代でした。だから売上が半減する中でやりくりするために、2000年に印刷を神戸に一括化ということになったのですが、当初はブローカーになってしまうのかと戸惑いました。
    その前は、東京に印刷機もあったし、外の外注先も多かったから、下版の仕方とかでよく怒られたりしたし、勉強もできました。今の若い人はそういう経験ができないからかわいそうですね。
    当社には、総経部とか直接印刷に携わらない人もいます。そういう人たちも印刷の知識をつけて、お客さんからの問い合わせに対応できるようになると、それが囲い込み、お客さんを安心させるということにもつながるではないかと思います。
    印刷会社はお客さんの都合で売り上げの波があるのですが、ある程度見込みのあるベースをつくって安定的に収益がある方が社員も安心するでしょ。
    現場がやりやすい環境を作るのが経営の仕事かなと思っています。
―最後に会社のことでもご自身のことでも良いのですが、一人の人間、椎名高久として夢は何ですか。
まずは、大学3年生と今度高校1年、中学1年になる3人の子供達が、今の世の中いろいろある中でうまく回避してそれなりに育ってくれれば。
会社としては、売上があがって、利益があがって、みんなで分配して、みんながハッピーになって、社内旅行で海外行こうかみたいな会社になりたいですね。
家族や、親に福田印刷に入って良かったねといわれるような、友達に自慢できるような会社ですね。
全員が右向け右で同じ方向を向くのは無理かと思いますが、ある程度歩みよって納得してやってもらいたいですね。今の時代、休みの日まで会社の人といたくないという考えもあるし、あくまでも自由参加ですが、築地のお祭りとか東京マラソンの時に会社を開放して地域密着するとか、そういうのも一つの案かなと思っています。
バブル崩壊、リーマンショック、阪神大震災、サリン、東日本大震災、そういうことを乗りきってこられた。だからまだまだ行けるってポジティブに考えたいです。社員の方々が満足できる会社にしていきたいですね。
―ありがとうございました。

東京事業部60周年を記念して、社員の生の声を不定期で掲載します。第1回は、企画制作室の斎藤雅晴さん。現在、印刷の版下はほとんどがコンピュータを使って作られていますが、かつてはすべてが職人の手作業でした。線1本引くのでも高度な技術が要求され、0.08ミリまでの線を手で書き分けていたそうです。斎藤さんは、当時のことを知る東京事業部で唯一の匠です。
アナログからデジタルへ、印刷の世界が激変するなかで、ここ東京・築地も様変わりしました。大きな変化を目の当たりにしてきた斎藤さんに入社当時のことから、仕事に対する想い、プライベートまで大いに語っていただきました。

①印刷業界&福田印刷に入ったきっかけは?

―いつ入社しましたか?
  • 今から38年前の、私が26歳のときに入社しました。たまたま隣に福田印刷の工務部(現:管理部)の課長が住んでいて、転職活動をしているのも手先が器用なのも知っていたので、その方が声をかけてくれました。企画部の主任が辞めるので、後継者として入ってくれないかなということでした。会社に行って社長と面談をして、入社を決めました。
    翌日にその方がロットリング※1を持ってきて、練習をしてみてと言われました。初めて触る物だったけど、定規で引いていたらスムーズに書くことができ、「すごいね」と褒められおだてられてそのまま入社しちゃった(笑)
    ※1 ロットリング:ドイツのハンブルクに本社を置く筆記用具メーカー。製図用万年筆が世界的にヒットした。
―入社当時の福田印刷はどのような会社でしたか?
入社前から会社の話は聞いていたし、情報は入っていました。当時、営業は個性が強くて人当たりが強くて…。メインは3名。『船頭多くして船山に上る』のとおりの人たちでした。転覆はしなかったけどね(笑)
そういう話を事前に聞いていたので覚悟して入社しましたが、営業に受け入れられたようで、スムーズにのびのびと仕事ができた記憶があります。
―会社全体はどのような雰囲気でしたか?
営業に力があったから、他部署は大人しかったね。4階に営業部、工務部(管理部)、事務関係、3階に植字、2階に印刷部がありました。私と他3名は5階の企画部でした。
―黙っていても刷るものは来る時代だったと聞いていますが…
自分たちから何かを提供して仕事をもらう時代ではなかったですね。客先に行けば何か注文がもらえる…そういう良い時代がありました。当時、企画部だけでも版下関係の外注が3社か4社ほど出入りしていましたね。それだけ仕事の量が多かったと思います。
―当時の築地の様子は?
  • 自分が入社した時は、ビルが建って3年目くらいでしょうか。真新しくてきれいでした。周りは2階建ての民家ばかりで、5階で仕事をしていると窓の外から築地駅の出入り口とその先が見えました。当時は一番高いビルだったから、見晴らしが良くて聖路加の森も見えたかな~。
    入社してしばらくすると周りにビルが建ち始めて、どんどん見えなくなっていったような気がします。

②当時はどのような作業をされていたのですか?

―入社してからの仕事内容は?
  • 入社して分かったのは、仕事で使わなくちゃいけないのはロットリングではなく、カラス口※2だったということでした。入社した日に新しいカラス口を会社から支給されましたが、新しい物は肉厚だからすぐには使えないので、それを砥石で自分で研がなくてはいけないのです。それを教えてもらって、2~3日かけて自分の書きやすいように研いでいました。
    先を丸めて薄くしてピッタリ合うように…何回も書いては研いでの繰り返しで調整して、一番細い線で0.08mm罫を書けるようにしました。また、コンパスの先も研いで円が書けるように練習しました。
    カラス口は極細用、中太用、太用と各々あって、一番太くて1.0mm。絶えず研いでは書いて、研いでは書いて…を繰り返し練習して身につけました。そうしてトレースの練習を始めました。絵柄を置いてその上に厚手のトレーシングペーバーを重ね、定規を使ってトレースしていくわけです。
    ※2 カラス口:製図用の特殊なペンで、ペン先の形状カラスのくちばしに似ていることからこの名で呼ばれている。ペン先をインクにつけ、定規を併用して細く均質な直線を引くことができる。インクを付けすぎると滴り落ちて台無しにしてしまうので注意が必要だ。
―何をトレースしたのですか?
  • まず練習として、デゴイチ(D51蒸気機関車)をトレースしました。線画の蒸気機関車があって、コンパスで円や半弧を書いて定規で合わせて直線とピタッと合わせます。半弧と線をピタッと合わせるのが技術です。それが一番最初にやったトレースの練習です。それを営業に見せたら褒められて嬉しかったですね。すごく大変だけど、コツを覚えると面白かったですね。建物関係、機械関係の設計図を全部手書きでやりました。また、帳票の表組も全部手書きでした。カラス口で線を全部引いて、写植の印画紙の裏に糊をつけて、今度はそれをきれいに切るわけですよ。平行に定規をずらして切り、ピンセットでまっすぐに貼る…その技術ですね。表組も今では1つの画面で作るけど、当時は2工程で作っていました。トレースして写植をもらって、曲がりがないように貼りつけて、それを版下に貼り付けるわけで、すべて手作りでした。
―手間ひまがかかっていますね。
そうですね。今はデータの作成ミスがあるけど、その当時のミスの原因は糊だからね。こすったり時間が経って糊が弱いとはがれてしまう…それによるクレームが多かったですね。なくなってしまったり、歪んだり、斜めになったり、その状態でフイルム撮影するとミスになります。それでもう1回撮り直しです。切ったり貼ったりの繰り返しでしたね。だから当時からカッターはたくさん使っていたので、今でも使えるんですよ。
カッターは切れない刃を使っちゃダメ!余計な力が入ってしまうから、切れない刃を使うと指を切ってしまいますよ。
―当時の状況は?
入社した頃は版下作成をしていたのが2人か3人ほどでした。捌ききれないものは外注に出していましたね。その中継を自分が担当していたので、帰りは遅かったですね。若かったからこなせたけど。今やれと言われてもできないかな。
―記憶に残ってる仕事は何ですか?何が難しかったですか?
やっぱりトレースかな。建物・機械図面の書き起こしとそれの修正が大変でした。
―どのように修正するのですか?
修正用カッターと砂消しゴムで線を消します。間違った線をカッターで削って、砂消しゴムをかけて表面を滑らかにして、線を書き入れます。余分に消さないとつなぎがうまくいかないんです。だから二重手間になるわけですよ。その修正が大変でした。最初に書き起こすのは図面のとおりにどんどん書いていけばいいので。だから「この修正を明日の朝に持っていきたい」と言われると「わ~っ!」ってなりましたね(笑)
―徹夜はあったんですか?
1回か2回くらいはあったかと思います。遅くまで仕事をして、帰ったはいいけど次の日も朝早いし、ほとんど寝ないで会社に行ってました。
でも、当時のことを思うと仕事的には大変だったけど面白かったですね。だから今言いたいのは、そういう面白いところを今の社員は見つけられるといいな~と。昔は自分の腕が頼りだったから。満足のいく仕上がりを追求するのも腕次第だから、そう思うと仕事として良かったですね。
―職人魂ですね
そうですね。職人魂ですよ、今では懐かしい思い出です。自分が必死に覚えて企画の仕事を早く身につけられたことが自慢になりますね。
―記憶に残っている失敗談はありますか?
  • 某銀行の週報や月報の作成業務がありました。週報というのは毎週出るわけですよ。その週報を納品した次の日の朝、お客さんから社長に電話がかかってきたことがありました。「直しがあったはずの場所が隠れているんだけど…」と。糊が2行くらいずれていたんですよね。そのまま製版して印刷してしまいました。社長が飛んできて「とにかくすぐやれっ!」と。すぐに製版の人を呼んで印刷をして急いで届けました。それはサーっと血の気が引きました。
    自分でやったのかどうなのかは分からないけど、実質的には失敗しているわけですから。今、ああいうミスをやったらとんでもないことになってただろうな(笑)。当時は、(間にいろいろな人の手が入っていたので)ミスは必ずどこかでストップしていたけど、この件に関しては止まらずに行ってしまった稀有な例でした。

③アナログからデジタルへ

―その後、どうなったんですか?
ワープロで文字だけ打ってFX(初期の組版機)で組版を行っていました。FXを操作して印画紙を出力して、企画に持って来てわれわれが版下を作る…そういう時期がありました。本当のデジタルの走りですね。
それからすぐにサイバートという製図・組版機が入りました。それも2~3年でなくなったと思います。その後でMacが入りました。徐々に線を引いたりする仕事がなくなっていきました。
当時は営業や外注との折衝がメインだったので、なかなか席に座ってMacをさわる時間が取れませんでした。入社以来ずっと企画の取りまとめをしながら自分の仕事をしていました。いわゆるプレイングマネージャーでしたね。だからMacを覚える作業との両立は難しかったですね。それが業務内容の変化かな。42歳、サリン事件の少し前だったから95年頃ですね。
―忙しかったしMac導入でいろいろなことが急激に変わって負担が大きかったと思いますが。
辞表を出そうかと思っていた時期もありました。でもやはり家族に不安を持たせたくなかったから、難しかったですね。営業が企画内の人に不満を直接言わせないように、自分が止めていました。そうしないとオペレーターが辞めちゃうからね。プラス、仕事が忙しい、納期が短い。夕方に戻ってきて明日の朝までに仕上げるというのが多かったですね。
そんなある日の昼休みに、バケツに血を吐いて倒れてしまいました。胃潰瘍でした。そのまま1カ月入院しました。体力が落ちてしまっていたので、そこからまた1カ月は会社を休みましたね。
当時、アナログからデジタルに変わったと同時に、トレース、写植などの専門職を個人でやっている外注さんは仕事がなくなってしまいました。廃業して別の職種に転職する人と、Macを勉強してもう一度立ち上げる人とはっきり分かれました。とにかく職人と呼ばれる人はお手上げで、その切替はすごかったですね。それが90年代後半です。
―今の形の企画制作室ができたのが2000年です。
その頃には東京の印刷機もなくなって、企画スタッフを増やすという形になりました。企画制作室になってからは、営業からの手配をしていました。
―現在は、校正の仕事を主にされていますが。
実は校正の仕事を始めたのは最近なんです。版下作成時代の知識があるから組版のバランスなどの見方ができるわけです。今のMacのツメは嫌いですね。昔の写植の字並びがきれいでした。今は特に字間が詰まるのがダメですね。挨拶状は逆に開いている方が読みやすいし、カタログや説明文は詰まっていてベタ組みの方が読みやすいと思います。本文が詰まりすぎてるのは読みにくいですね。若い頃、営業からは、「自分たちが読むんじゃない、お客さんが読みやすいように作るのが当たり前だ」と言われていました。

④各部の印象は?

―現在の各部の印象はいかがでしょうか?
  • 管理部(以前は工務部)は福田印刷の柱だと思います。営業からの仕事、そこからの手配、外注さんの手配、紙の手配、印刷の手配、企画とのやりとり、できあがった品物の流通など、すべての情報が入ってくるからね。
    営業部は若手と中堅だからまとまってのびのびと仕事しているように思います。昔を知ってる私としては天国だと思うよ。昔は顔色をうかがいながらやっていたからね。
    昔の企画は、人の出入りが激しかったです。絶えず人が出入りしていると、部屋自体がよそよそしいんだよね。新しい人が来るとなかなか気分的にはじけられないじゃないですか。入れ替わりが激しいのは雰囲気的に良くないと思います。今の企画は、最近新しく入った人もいるけど、メインがどっしりしているから雰囲気が良くていいんじゃないかな。

⑤リフレッシュ方法について

―それではここでお仕事以外のお話を。リフレッシュ方法について聞きたいと思います。
以前はカメラを持って家のまわりを散歩がてら撮影していました。四季の花とか。特にいいな~っと思ったものは、プリンターで大きく出したりしてね。けっこうな枚数を撮りましたね。現在は引っ越してだいぶ処分してしまったけど。
まあ、(リフレッシュといえば)唯一そんなものだったかな。遠出もしなかったし、旅行もめんどくさくてね。当時はお金もなかったしね(笑)
―今はボウリングに夢中ですよね。始めたのは最近ですか?
はまり始めたのは5年くらい前ですね。始めに投げたのは高校2年生のときで、部活の帰りに仲間と行ったんだけど、確か最初に100点近く出た気がします。第一次ボウリングブームは20歳くらいのときです。
―最近は、会社に来ている日数とボウリングに行っている日数がほぼ同じなんじゃないか、というくらいですよね?何がそこまで魅力なんでしょうか?
いやいや、会社の方が断然多いよ!そこはハッキリしておかないといけないところですね(笑)ピンに向かってコースをどうしようか、どう投げようかあれこれ考えると、無心になれますね。そうやって投げていると、今度は横の人とのつながりができるわけです。ボウリングを中心とした輪が広がって、下は10代から上は70代の人たちまで、均等に話せますからね。
たくさんの人と知り合えて、会社勤めじゃありえない数ですね。それにプラスしてボウリング場主催の試合があって、それに参加して真剣勝負のつきあいというのもあるわけで。今日はどうだった?ばっちりだった?とかね。リフレッシュというのか、それ以上に充実感がすごくありますね。若い頃には味わったことのない世界ですね。
―ボウリングを始めてから生き生きしていますよね。
会社にも来てくれと言われていてありがたいですね。他の人に言うとみんな「え~っ!!」て驚いています。実際に定年で辞めている人たちもたくさんボウリングに来ているけれど、「ひまだ~」って言っていますよ。ボウリングをやる時間って2~3時間でしょ。それ以外の時間の持て余し方が大変みたいです。私は昼間は会社に来て、帰ってからボウリングして、いいんじゃないかって実感があります。

⑥これからの福田印刷へ

―最後に
  • 今、東京事業部は若手もいるし、中堅もいるし、その人たちが引っ張っているので、この先は明るいんじゃないかとみています。いい方向に向かっていると思っています。それに今はみんな積極的に外に出ているじゃないですか、お客さんに対して。これが一番大きいと思っています。今までは営業発信で仕事をもらってきていたけれど、現場サイドからの発信が出ているわけですよ。そこに営業からの発信が加味されて、担当者に良い印象を持ってもらえているんだと思います。
    お客さんからご指名があるってすごいことですよ。鼻を高くしていいと思います。それだけお客さんから見られてるってことですから。現場からの新しい発信が加味されて、新しい仕事が広がってくるんじゃないかと思います。今でもカタチは見えますが、よりいっそう一致団結していけば、良い方向に向かうと思っています。楽しくしていくことですね。
    それと自分の経験からして、仕事をしていれば人間関係とか作業関係とか給料関係とかで不満が出てくることは当たり前です。これらに反発して辞表を出すということ控えてほしいと思います。これを我慢して、乗り越えていって、私のように定年になったときに、中小企業でも長くやってきて良かったなという実感がわくときが必ず来ます!地道にめいっぱい頑張ってほしいですね。反発しながらも頑張ってほしいです。そう思える日が必ず来ますから!若いときは辞めたいというのが先だけど、それを乗り越えれば幸せなときが来ます。絶対来ます。ありえます。
―斎藤さんにとっての福田印刷とは?
人生、波瀾万丈ですね。いろんな大きな出来事がありました。悔いが残ることはあるけれど、みんなから助けてもらったという実感があるので、あとは少しずつみんなに手助けできることを返していこうと思っています。でも福田印刷に入ったからこそ、今のこの時期の幸福感があると思っています。皆さんにも会えたしね!!
―ありがとうございました。

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